葦束漂流記

漂流者。Y世代のしがないサラリーマン。

民間銀行はなぜ国債を買うのか

3月2日に、衆議院で2021年度予算案が可決された。

予算は衆議院の優越事項なので、参議院で否決されようが結果的に、この予算案が2021年度の予算ということになる。

 

予算規模は約107兆円

相変わらず社会保障費が多くを占め、1/3の37兆円は社会保障費である。

 

参考:2021年度予算案 一般会計の総額が過去最大に おさえておきたい数字をチェック|NHK

 

さて、今回私が気になるのは、歳出ではなく歳入。

新規の国債の発行額は、歳入不足を補うための赤字国債が37兆2560億円、建設国債が6兆3410億円の合わせて43兆5970億円」

とのことだ。

 

国の債務(借金)が44兆円発生しているということになる。

よく、この国債の累積を日本の人口で割り、一人当たり1,000万の借金だの言われていることが語弊があるのではないかとやり玉に挙がっている。

ともかく、国民のことは置いておいて、国がどこかから44兆円を新規で借りてきたということには変わりはない。

 

さて、借りてきたというからには貸し手がいないとおかしい(誰かが買ってくれていないとおかしい)ということなのだが、国債保有者の内訳はこういうことらしい↓

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出典:日本の国債の保有者内訳をグラフ化してみる(最新) - ガベージニュース

 

なるほど、是非は置いておいて、日銀が国債や株式を買い支えているという話はよく聞くので中央銀行が多くを担っていることは納得がいく。

 

気になるのは民間銀行などの項目で約4割。

利回りもとても低い状態でなぜ民間銀行が大量に国債を購入するのか?どうも解せないのはここだ。

 

試しに調べてみると、

1.自己資本比率を高めるためいう説

出典:銀行は日本の国債をなぜ買うの? - 教えて! 住まいの先生 - Yahoo!不動産

 

2.購入時よりもさらに金利が下がると高く売れる可能性があるからという説

出典:日本の金融機関はなぜ日本国債を買う?【トウシルクイズ068・経済】 | トウシル 楽天証券の投資情報メディア

 

ほかにもあるが…

一方で、池上彰氏の説明によると「日銀は政府が発行した国債をすぐ引き受けるということはやっていません。政府が国債を発行すると、いったんは一般の銀行や私たち個人が買います。日銀は、一般の銀行が買った国債を買い上げて、同じだけのお金を発行する」

とのこと。

出典:【第4回】国債って何ですか?: 帰ってきた池上彰の「やさしい経済教室」: START! -基礎から学ぶ、マネー&ライフ- :朝日新聞デジタル

 

であれば、確かに、2.の説のように、デフレ下において一旦民間銀行で購入していてもそのうちさらにデフレ対策に金利が下がり、いずれは日本銀行が買い入れてくれるので、一旦国債を引き受けよう、となるのもわかるようにも思う。

 

ただ、銀行も資金運用をしていると思うので、国債に偏るのもどうかと思うので、そのうち国債は購入せず、株式などで運用する方を好む、というなこともありそうなものだがそのようなことにはならないのだろうか?

つまり、国債に買い手がつかない、ということにはならないのだろうか。

 

そのあたり、大変不思議に思っている。

 

では!

 

ルールのある世界ない世界

昨日多くの国立大学で大学の個別試験(二次試験)が行われた。

2020年度の受験生は、

・コロナ影響

・入試改革影響(センター試験→共通テスト)

と例年にない変化への対応が迫られ、

中には、1か月前頃になって個別試験を廃止するなど想定外の憂き目にあった受験生もいたであろう。

 

さて、入試改革については、直前ではないが、

・民間の英語検定の利用に関する問題

・共通テストで記述式の出題をするしない問題

などへの判断がなされ、一部に入試内容の2年前告知ルールに反しているのではないか、など多くの不満が寄せられた。

 

翻って、経団連が「Society 5.0 に向けて求められる初等中等教育改革 第一次提言」

VUCAの時代を生き抜く素質を教育に求めるなど、「これからの世の中は予測不可能な時代である」との見方も多い。

出典:https://www.keidanren.or.jp/policy/2020/063_honbun.pdf

 

*VUCA(ブーカ)とは、Volatility(変動性・不安定さ)、Uncertainty(不確実性・不確定さ)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・不明確さ)という4つのキーワードの頭文字から取った言葉

 

一方では、ルールの周知徹底が重要であるといい、他方では世の中は想定外に瞬く間に変化する、というモデルで思考しているわけだ。

 

 

実際、入試においては、「教科科目」「教科科目数」「配点」「解答時間」「出題分野」「出題形式」が重要であることは言うまでもない。

だからこそ、東大に受かった人が早慶に落ちることもあれば、京大に受かった人が同志社に落ちることもある。

 

本命の志望校の科目数が多い場合、学習が分散しがちなので、2科目に集中して受験した学生と同じ募集単位で受けると後塵を拝することもあるし、マーク式ばかりを鍛錬し知識としては大体わかっていてもいざ記述式で歴史上の人物名を漢字で答えなければならなくなると、書くことができなかったりというのはよくある話だ。

 

そして、このような「配点」「出題分野」などが2年前からあらかじめ提示されているならば、それに対応してやろうと”対策”する人たちがいることは否定できないし、否定すべきでないだろう。

 

 

一方で、経団連が言うように、社会人ともなると、大体の評価はわかっても、いちいち、「マナーが何点」「コミュニケーションが何点」「アイデアが何点」などと評価観点と自分の得点がわかるわけではないし、何点取ったら大体出世だ、というのがわかるわけでもない。なんとなれば、それこそVUCAで今までの基幹事業が黒船到来とかで切り捨てる分野になればそこの技術者全員が冷遇されるということもあるだろう。

 

極論を言うと、本当にVUCAの時代が来るとして、それに対応する高い対応力をつけてほしいのならば、意図せず今年そのようになったように、直前まで受験生に配点や解答時間、出題科目を教えない、くらいした方がよほど瞬発力のある学生が合格しそうである。

もちろんその逆の用意周到にあらゆる科目であらゆる出題形式の練習をこなしてきたという準備万端の猛者ももちろん合格できるだろう。

 

 

 

ー大学入試は、選抜なのか達成度の評価なのかー

 

これもまた、入試改革を巡って委員たちがもめていたことではあるが、大学入試は「選抜なのか」「達成度の評価なのか」。おそらく日本は前者であろう。

 

大学入試の試験が、「大学で学ぶに足る基礎知識の有無を判断する」「大学で学ぶに足る意欲を評価する」などであれば、後者でよいはずで、英検や漢字検定のように、70%以上得点すれば全員合格とか、80%以上得点すれば全員合格とかすればよい。

 

しかし、現状は異なっており、たまたまその年の倍率が高いと、例年の合格点に達していても落ちるし、それこそ、定員厳格化で合格最低点が上がった、などというのも、それが、学力の水準の確認のための試験ではなく、あくまで「選抜」のための試験であるからだろう。

 

その点でいえば、むしろ大学入試は実社会の会社に近く、会社が急拡大中で幹部がいなければ、早い段階で管理職に就くフェーズもあるし、逆にうえが詰まっていて万年ヒラ社員であったということもあるだろう。

 

コロナで大学もオンラインが多いと聞くので、であれば場所の制約もないので、基準を満たす得点であれば皆合格させても面白いのではないかと思うのだが、そういう風にはならないのだろう。

(なると、益々つぶれそうな大学が増えそうなのと、有名大学の学生が増えると逆にその大学を卒業したという希少性が落ちそうなのでブランドが低下しそうだ)

 

これから就職される人にはルールのある世界とルールのない世界のいずれかであるかをしっかり見極めてもらいたいものである。

もちろん、昇進試験など会社員にもルールのある試験があることもある。

 

では!

 

 

 

 

 

 

 

理由なき犯罪の方が怖くないですか?

よく殺人事件などの裁判、判決などを見ていると

・計画性がない

・故意ではなく過失だった

などの弁護側がの主張がある。

 

これらの主張は、減刑を目的としたものと思われるが…

 

実際、どういう犯罪者が怖いかというと、

理由なき犯行>過失>故意>計画

ではないですか?

 

計画を立てられるほど恨まれているなら、なんかしら自分でもその予兆に気が付きそうですし、過失だとしても、「カッとなってやった」なら、カッとならなければ通常は善良な人間であるのであろう犯人は。

と思うわけですが、

よくわからない通り魔のように、歩いていたらいきなり刺された、

犯人主張は「理由はない」。

被害を受ける側としてはこれが一番怖い。

理由はないので避ける方法がない。

 

しかし、にもかかわらず、計画的に故意に犯行する奴の方が罪が重いわけです。

 

 

これによく似た話が、刑法39条で、なかなかに評判が悪い。

責任能力がないとかで、無罪になるとかいうそういうやつです。

 

刑法第39条
心神喪失及び心神耗弱)
第三十九条  心神喪失者の行為は、罰しない。
2  心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

 

 

少し調べてみると、責任主義というものと関連が深く、責任能力のないものを罰することはできない、という考え方らしい。

 

責任主義(せきにんしゅぎ)とは、行為者に対する責任非難ができない場合には刑罰を科すべきではないとする原則。「責任なければ刑罰なし」という原則として知られ、罪刑法定主義とともに近代刑法理論の根本原理となっている。

 

出典:責任主義 - Wikipedia

 

私は法律に明るい者ではないで、刑法の原則であり、民法では異なるのかもしれないが、被害を受けた側としては報われないなぁとは思う。

 

ただ、加害者を罰することで何か心が晴れたように感じること自体も、それ自体で障害が回復したり、死者が蘇ることはないことを考えると、代替に過ぎず、本来的には、加害者への罰と被害者の救済は切り離して考えるべきかもしれない。

 

 

とはいえ、心神喪失している場合の人が町中におり、急に、理由なく刺されたら…

と考えるのは怖いのは怖い(過激な人は隔離しろとか軟禁しろとか言うわけですが)。

そうすると、認知症統合失調症の人への差別だ、なんて話も出てきたりするわけですが。

 

その点興味深いのは、

刑法第40条 いん唖者の行為は之を罰せす又は其刑を減軽

というものが平成7年に削除されたというものです。

「聴覚障がいのある当事者の団体が,われわれは責任能力が無かったり限定的だったりはしない.これは差別的な条文だということで削除を訴えた」というのです。

つまり、刑罰の例外にすること自体がそういう障害を持つ人を能力の欠損する属性ととらていることが、その意味では不当な差別であるということでしょう。

 

出典:障がいのある人の刑事責任能力~刑法第40条から

 

刑法39条の対象者を罰せられないことに対する批判が多い中、こういう観点は興味深いな。と思います。

 

では!

多夫多妻制にされてはいかが?

少子高齢化が叫ばれており、高齢化といっても高齢者を殺すわけにもいかないので、まだコントロールする余地があろうと少子化対策に政府は躍起でありますが…

 

保育園の充実

不妊治療への補助

子ども手当などの給付

18歳まで医療費無料

高等学校の無償化

etc...

 

いろいろありますが、私の提案として多夫多妻制にしてはいかがか?

結論から言うと、経済的に余裕のある方は、一夫多妻制でよいのではないか(ジェンダー平等の観点から多夫多妻制として制度化すべし)?

そうすることで、少子化対策になるのではないか、という提案である。

 

ベネッセの調査によると、

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出典:たまひよ妊娠・出産白書2021 PART2「出産・育児・仕事をめぐる母親の意識」

 

やはり、経済的な負担が子を多く持つことへの阻害要因となっている。

 

一方で、少し話はそれるが、生涯未婚率は女性よりも男性の方がかなりの割合で高く、

時間差で一夫多妻制が実現されているとの指摘もある。

再婚男性×初婚女性のペアが再婚女性×初婚男性のペアよりも圧倒的に多い。

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出典:「生涯未婚率」男性が圧倒的に高いワケ : 深読み : 読売新聞オンライン

 

離婚が不健全であるとは思わないが、時間差で一夫多妻制状態となっているならば、時間差なく、一夫多妻制になった方が健全なのではないだろうか。

また、女性の地位者、社会進出、経済力とも関連するところだが、現状シングルマザーの貧困傾向が高いことなどを考えると、子育て上離婚はあまり健全ではないように思われる。

 

さらに、学歴や収入の再生産(低学歴の親の子どもが低学歴になる、貧困家庭の子どもが貧困家庭になる)という格差の再生産の文脈から考えれば、経済力の高い父親(母親でもよい)の子どもが世の中で占める割合が高い方が、世の中的には貧困率が下がる、ということも仮説として成り立つだろう。

となれば、余裕のある人が何人もの配偶者を囲うことは悪いことではないのではないか?

 

こんなことを言うと、経済力の弱い男性があぶれる、などという反論もあろうが、現在においても貧困者同士のカップルは割とよくあるし、特に男女とも若いうちはあまり考えずに容姿などを重視したり、デキ婚で何となく結婚したりと、必ずしも経済的に豊かなものだけが結婚し子どもを持っているわけではない。

 

また、一夫多妻制ではなく、多夫多妻制であるから、例えば経済的に豊かな女性が、ジゴロ的な性的な関係はもちろん、プラトニックであっても、入れ込んでいるアーティストや作家志望者などを囲ってパトロンになっても構わない。

 

それならば、本当のパトロンで、寄付やお金をあげればよいではないかという意見もあろうが、クラウドファンディングでさえ贈与税がかかるので、同一家計の方が資金援助の自由度は増すであろうし、「結婚」という意味での不義などに対する拘束力もそれなりにあろう。

 

また、何よりも最も少子化で困っておるであろう皇室に置かれましては、本当に皇統の継続を望むであるならば、早急に一夫多妻制とすべきであり、その推進としても国民全体が多夫多妻であるというのは強力な援護となりうる。

 

多夫多妻制、如何だろうか?

 

では!

日経平均が30年半ぶりの3万円を突破

15日の東京株式市場で日経平均株価は前週末比564円08銭(2%)高の3万0084円15銭となった。終値で3万円を超えるのは1990年8月2日以来、約30年6カ月ぶり。日経新聞2021年2月15日より)

 

年末ごろも、30年半ぶりを連発していたが、ついに3万円を突破した。

自分は生まれてはいたが、10歳にも満たないのでバブルの記憶はない。

 

たまたま、先日ちきりん氏の

日経平均が3万円台になったあの日 - Chikirinの日記

という記事を読んでいたので、そこに書いていたことに触れると、

 

日経平均が2万円を超えたときの証券会社では、どこはともなく拍手が起こったが、

3万円を超えた際にはなにも起こらなかった。2万から3万になるまでは、1年とかからず、だれもがどうせまた4万を超える日がもうすぐ来るのだと思っていたのだろう。

 

といったものだ、今回、こちらの記事を事前にインプットしていたので、今日は何か起こるかと思っていたのだが、東証の映像を見るかぎり時に大盛り上がりということはなさそう。

自分はバブルを知らない世代で、しかも、今回30年ぶりだったので、株価的には自分史上最高に景気がいいはずなのだが、そのような雰囲気は世間からは感じられない。

さて、このあとどのように株価は動いていくのだろうか。

 

 

さて、日経新聞(データで見る日経平均 30年半ぶり3万円台: 日本経済新聞)によると、

下が1988年の時価総額ランキング

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下は2021年の時価総額ランキングだ。

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金融機関はランキングから消え去り、それどころか、多くは原型を留めず破産または合併併合。電力株も原発事故などでランク外に。変わらずいるのは、NTTとトヨタだけ。

さて、30年後の2050年にはどうなっているのだろうか。一説には、2045年にはシンギュラリティ―が起こるなどともいわれている。

2021年の多数派製造業の動きなどがきになるところである。

 

さて、株価の話をしたので、為替の話も想起される。

先日の、東日本大震災ぶりともいえる久々の首都圏含む大揺れ。

戦後最大の円高が発生したのは、なぜか、東日本大震災から半年後だった。

 

21日の欧米外国為替市場で円相場が一時1ドル=75円78銭まで急騰し、8月19日に付けた史上最高値(75円95銭)を約2カ月ぶりに更新した。

 

出典:円高長期化の様相 最高値更新、一時75円78銭: 日本経済新聞

 

地震津波でカントリーリスクも高かろうなのに、震災後も何度か円高を更新しての75円台だった。経済素人の私にはどうしてこのタイミングでこうなのかはよくわからない。

 

ともかく、おしなべて傾向としては、失われた30年などいい、確かに失われた…とは思いつつ、かつての株価が戻らなかっただけで、中では高低があり、また、低の中でも頭角をあらわす会社もあれば、高の中でも廃れていく企業もある。

物事の変化を見るのは面白い。

 

では!

 

 

 

 

 

子どもが負担すぎる

2月といえば、中学受験から大学受験まで受験シーズン。

そんな中、先日見た、中学受験塾の費用捻出のために家を売ったというブログが衝撃的だ。

 

「中学受験の塾代のために車と自宅を売った家族の話」に衝撃を受ける人たち - Togetter

 

ただ、衝撃的なタイトルとは裏腹に家を売ったといっても、残ローンよりも高く売れ、そして、また家を買っているという実態で、タイトルの強烈さよりは救われる内容だ。

 

しかし、問題にしたいのは、

・教育費高すぎ

・教育に熱心になりすぎ

という2点。

 

SAPIX代に月5を費やしているというのが、上記のブログのお話だ。

といっても、おそらく、月5万というのはいわば通常運転の話で、夏期講習、冬期講習、春期講習などとっていると年100万は下らないのではないかと思う。

 

しかも、

 

中学受験進学塾では通常、小3の2月からカリキュラムが始まるが、その時点で入塾を締め切っている校舎もある。

 

「実際に入塾するタイミングは、新4年生に次いで新1年生が多い」と話す。

 

早稲田アカデミーでも、低学年から通塾するケースは年々増加傾向にあるという。26校舎では小1・2生を対象に「スーパーキッズコース」を設け、入塾の基準も高めに設定している。

 

出典:中学受験塾、進む低年齢化 「席埋まる前に」早めに入塾 [変わる進学]:朝日新聞デジタル

 

ということで、低年齢化が加速しているらしい。

低学年うちから月5万ということはいかないとしても、入試直前には、受験料や併願すればすべり止め校への入学金もかかる。6年間で500万くらいはかかるとみてよいのではないだろうか。

 

しかも、希望しているのは中高一貫の私立であるから、中高の学費も高校無償化の影響で多少は補助になっている自治体もあろうが、額面では年に100万程度を6年間払っているのではないだろうか。

 

そして、うまく有名な超進学校中高一貫私立に入ったとしても、セットの有名塾鉄緑会にでも入れば、中学でも年額30万は下らないし、高校になれば月に5万を超えてもおかしくない。

 

これで東大や一橋、東工大など国立大学にでも収まればまだ大学の学費で取り戻せた感はあるが、私立ともなれば、大学の学費も年100万くらいは文系で理工系ならばそんな額ではきかない。

 

非常にざっくりとだが、小中高大の16年間にわたり、教育費に年間100万円を払い続けることができる人がどれだけいるのだろうか。

 

こういう世界には巻き込まれたくないと願いながらも、都内にいると「公立は…」の保護者たちの不安な声に煽られて、「公立は荒れているのではないか」「いじめがあるのではないか」「私立に行けなかったことだもだらけでやる気がなくレベルが低いのではないか」「先生の質が悪いのではないか」と様々な不安の襲われ、私立中高一貫を希望する家庭もあるのではないだろうか。

 

上記は、金銭的な負担だけだが、当然子どもを産むときには、女性は働いていれば産休育休にはいることがほとんどだし、父母ともに子どもの相手をするには時間を費やす。また、教育熱心で塾通いや習い事をしていれば、送り迎えにも時間を費やすし…

時間的な負担もかなりのものがある。

 

そのような事情もあってかなくてか、少子化も止まらない。

 

子育ての負担を考えるときに、「自分の子ども」というエゴをどこまで捨てられるか、という点が割と重要なのではないかと思う。

 

本来のスパルタ教育とは、「子供は国の財産」とみなす教育で、子どもは小さいうちから親元を離され、育成される。

早い段階で取り上げられてしまうのである意味そこに自分の子どもを熱心に育てて選抜においてほかの家庭の子どもを出し抜こうなどという現代的な情熱は生じえない。

 

スパルタ教育 - Wikipedia

 

親が教育に熱心になるには、共通の感情として子どもの幸せを願ってのことであろうが、思惑としては、代々の高い地位を子どもにも引き継がせたい、社会的に地位や名誉のある職につけたい、収入の多い職業につけたい、子どもに稼いでもらって老後には支えてもらえないなど様々あるだろうし、名誉ある子どもを育てること、育てたこと自体を自分の実績のように感じ、満足を得る親もいるだろう。

 

熱心さ自体は割と必然的なこととしても、その競争に参加できるのは全員ではなく、そして、参加する権利が金銭的な余裕に由来するなら昨今騒がれている、格差や貧困の再生産に教育が図らずも寄与することになるだろう。

 

一方教育格差の是正を叫ぶ人で、ここまで強烈な主張をする人はいないのだけれども、本当に格差をなくす気があるならば、スパルタどころか、2,3歳のうちに親元から引き剥がしてしまって、能力に応じて教育を受ける権利でも与え、親の介入を一切たちきってしまったらどうか?

あるいは、財産一代法ともでも定めて、相続税100%でストックを許さず、没収でもしてはいかがか?使い切りたい金持ちがいれば経済も回るし、逆に金持ちがため込んだまま死んでしまえば没収できるので国庫も豊かになり、無償化などにも回せるかもしれない。この場合、使い切ればよいので子どもの教育に熱心に富裕層はお金をかけるかもしれないが、所詮ため込めるのは1代限り、子、孫の代で失敗すればエスタブリッシュの再生産は起こらず、皇室や旧大名家の嫡男がどこかで途絶えるように出来の悪い子孫が2代続けてでれば特権層の命脈は途絶える。

 

いずれにせよ、小市民であるわたくしは、今ある制度の中で家計が破綻しない程度に、子どもの幸せを願うばかりである。

 

では!

無自覚の偏見と年齢差別

東京五輪パラリンピック大会組織委員会森喜朗会長(83)が、女性蔑視と受け取れる自身の発言の責任を取って辞任した。

「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」発言が問題となり、国内問題、国際問題となり、森氏の謝罪にも関わらず辞任の運びとなった。

 

私が指摘したいのは、森氏の不適切発言ではない。

むしろ気になったのは、森氏を批判する際にTwitterなどで頻繁に見られた「老害」というワードだ。辞書的に老害とは

 

自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪

 

とのこと。

具体的に年齢的な言及があるわけではないが、年寄りの弊害についてレッテル貼りをした言葉のように思う。上記の例であれば、森氏の発言を「老いによるもの」あるいは、老境に入っている「高齢者世代の思想の問題」と一般化したように思う。

いうまでもなく、老人でも女性蔑視をしない人もいればする人もいるし、若者も然りで、年をとると皆が女性蔑視を始めるという話でもないだろう。

 

老害として片づける批判者は、無意識に年齢差別を行っているのではないかとも思える。無意識に女性差別を行ったことを批判する立場としてはわきが甘すぎやしないだろうか。

老害の問題としては、池袋暴走事故批判の際にも頻繁にみられ、老人蔑視、世代間対立の煽情とも思える。

 

一方で、「最近の若い者は」という言葉は、BC2000年頃に石板にも書かれていたとの話もあり、太古から年長者が若者を軽く見る傾向があったことは興味深く、いまだに若年者を年長者がバカにする、という傾向は否定できないだろう。世代間の対立は根深い。

 

 

ーなぜ、年齢による差別(区別)があるのかー

さて、話は変わって、常々に気になっていることとして、なぜ、17歳以下に選挙権がないのか、という点だ。

おそらく、判断能力など様々な理由があるのであろうが、最近は、20歳から18歳に引き下げられたし、〇才になれば選挙権を持ってよい、というものについては合理的な、あるいは万人が納得する基準はないように思われる。

 

しかしながら、日本国に生きている国民である17歳以下については、政治に参加する(少なくとも投票によって影響力を与える)権利がなく、すべてを先輩方に委ねているということになる。

 

シルバー民主主義などと言われている昨今、十中八九年配者よりも長く生きる未成年層が自分の生きる世の中に対して、影響力を行使できないのはどうなのだろうか、と思う。

 

実は、海外ではそのあたりの議論もあるようで、ドメイン投票という。

親権者が子供の数だけの投票権を追加して付与する投票方式である。

 

ドメイン投票方式 - Wikipedia

 

また、ほかにも面白いものがあり、平均余命との差異によって持ち票が違う、という投票方法を提唱している人もいた。

つまり、80歳で死ぬとすると…

70歳以上は一人1票だが、40歳の人は3票、20歳なら5票などと、これからの政治決定の影響を受ける期間がより長い人の方がより政治に対して強い影響力を行使できるようにするという投票方法である。

 

いろいろな方法が考えられているようだが、法治国家である以上、ルールを変えることを許可するかどうかの生殺与奪権を握っているのは、「今権力を持っているもの」だけである。

 

ーマイノリティはどこまで保護されるのかー

社会問題になりそうなこととなりそうにないことがあるということ。

今回、女性差別というのが非常に大きく取り上げられ、そのようなことは保守的と言われる日本においても容認されないとの意見が示された。逆に上記の例では、老害ということについて問題と捉える人はほとんどいないらしい。

 

少し前の話だが、LGBTの話が盛り上がった。

これに対して、

LGBT」はもう古い? 「LGBTQQIAAPPO2S」だ

という発言がでてきたり、

また、様々な性的嗜好が許容されるならば、「幼児性愛者」はどうなのだ、という議論が出てきたり。

 

これらについて、ここまでは認めるがこれ以上は認められない、私はここまでは許容と各人様々にご意見をお持ちだろう。

 

要するに、問題化されるトピックと問題化し際に社会的に許容されるトピックとそうでないものがある。それも時代によってそれは変わる。

過去の尊属殺人に対する量刑やチャタレー事件などを見てもそうだろう。

 

常識を疑ってみること、アップデートされている世間の常識を(賛成反対はさておき)把握しておくこと、把握したうえで発言をするかしないかを判断すること、が大切なようである。

人と異なる意見を持つことは問題ではないが、少数派の意見を述べるならば準備をしておくのが賢明かもしれない。

 

では!