GDPってそんなに重要か?
コロナ禍の報道を見るに、GDPが〇%減少するだの、GDP600兆超を目指すだのやたらと話題に上がるGDP…
さて、GDPってそんなに大事なのか、というか、一人当たりのGDPが減少し貧しくなる、などという言説は本当なのか?
内閣府の説明によると以下のようにある(自分が義務教育を受けていた時にはGNPも混在していたように記憶している)。
GDP(Gross Domestic Product)=“国内”総生産
GDPは国内で一定期間内に生産されたモノやサービスの付加価値の合計額。 “国内”のため、日本企業が海外支店等で生産したモノやサービスの付加価値は含まない。
一方GNPは“国民”のため、国内に限らず、日本企業の海外支店等の所得も含んでいる。
以前は日本の景気を測る指標として、主としてGNPが用いられていたが、現在は国内の景気をより正確に反映する指標としてGDPが重視されている。
なるほど。付加価値であることが重要らしい。
すなわち、農家Aが自分たちのために米と野菜を作ってそれを食べれば、付加価値は0円だが、同じ農家でも、農家Bが米を作り農家Cに売り、逆に農家Cは野菜を作り農家Bに売り、売買が行われればその価格がGDPに加算されるのだろう。
とすると、安倍政権の謳っていた女性の活躍は、実は、GDP向上のための方策だったのではないかと思えてくる。
つまり、専業主婦的に自ら家事をし、自ら育児をしてもそれは付加価値を生み出さない。自給自足している農家と同じだが、家計にとってプラスマイナスは0でも、ある女性が月に5万円かけて子供を保育園に預け、そして、パートで5万円稼いでくれば、保育料は付加価値としてGDPに加算される。
なるほど、GDPが増えることと、世帯単位、個人単位での可処分所得が増えることは別問題のようだ。
ー名目GDP-
また、GDPを算出する場合、国家間で比較される場合、よく名目GDPが用いられる。
野村証券の用語集を参照すれば以下の説明となる。
GDPは、名目GDPと実質GDPで構成される。
名目GDPは、その年の経済活動の水準を算出したものである。その年に生産された財について、それぞれ生産数量に市場価格をかけて、生産されたものの価値を算出し、それを全て合計することで求める。
たとえば、財の値段が一気に2倍になったとき、名目GDPは単純に2倍になる。しかし経済の規模が2倍になったとはいいきれない。
その際、物価変動の影響を除いた実質GDPのほうが経済の実状を知る上で重視されている。
なるほど。財の値段が2倍になったとき、名目GDPは単純に2倍になる、と
…インフレが起これば自然とGDPは向上しそうである。
そうすると、
1.自分でやっていたことを人に頼み、報酬を支払えばGDPは増える
2.モノの価格が上がればGDPは増える
と言えそうだ。
GDPが高い世の中とは、やたらと家事をアウトソーシングし、やたらとインフレが起こっている世界かもしれない。
また、家事がそうであるように、今まで価格がついていなかった活動に価格をつけ、報酬のやり取りがあればもっとGDPは増えるということになるだろう…
そんなに増やしたいなら、登校している児童のランドセル企業の広告やら、私立の学校であれば大きく日能研みたいに目立つロゴでも入れて登校してもらい、保護者に宣伝費でも払ってはいかがか?そうするとGDP向上に子供も少しは貢献できそうである。
と考えてみると、GDPが低いことにあまり不安を持たなくてもよいのではないか、
GDPの低下化は貧しさの指標とはならないのではないか
とも思うのだが、如何だろうか。
GDPが下がると防衛費を下げなければいけないから困るのか?
では!
お世話はしたくない、出来物が欲しい
2021年下半期でも最も、心に響いた言葉といえば、『サピエンス全史』の人は「穀物の奴隷」であるという言葉である。
確かに、普段人間様だと思っている人間かもしれないが、知らぬ間に小麦様にかしづき、喉が渇けば水を与え、お腹が減れば肥料を与え…
気がつけば、朝から晩まで小麦の世話をしている。そして、小麦は世界のありとあらゆるところに生息範囲を広げ、そして、子孫を増やし大繁栄している。
一目でわかる解説はこちら
人類は小麦に騙されていた!?人類が小麦の奴隷に至るまでの漫画がめっちゃ分かりやすい
ー遊牧民は支配占領したいわけではないのかもしれないー
『文字世界で読む文明論』という本を先日読んでいたが、確かに、遊牧民はあまり農耕民の領域的支配にまでは至らないケースが多い。
もちろん、それなりに支配を行うものもあり、中国であれば、鮮卑だったり、モンゴルであったり、清国であったり…
それなりに長く支配し、また中には漢化までしてしまうものもあるが…
が、しかし、大体はそれほどまでは浸透せず、和平を結んで金品なりを貢がせることが多い。
『文字世界で読む文明論 比較人類史七つの視点』(鈴木 董):講談社現代新書
もちろん、一般的に農耕民のほうが数が多く、反乱などされれば鎮圧が難しい、などのデメリットもあろうが、支配するよりも、「アガリをはねた方が都合がよい」と考えたのではなかろうか。
いざ支配を初めてしまうと、管理コストはかかるし、いざとなれば、遊牧民のほうに農耕の知識はなく、結局のところ、農耕民の知恵や労働力、働きっぷりに頼らざるを得ない。であれば、適当に今まで通り働いてもらい、時々攻め込んで脅し、そして、幾分か出来物を取り上げた方が楽だ、ということにはなるまいか。
日本でも有名な江戸時代の「百姓は生かさず殺さず」というのがある。
生産を担う労働者を殺してしまっては生産自体が滞り元も子もない。
自分が行うよりも、
自分が行わずととも管理をするよりも、
勝手に頑張ってもらってその果実の一部をいただく。
これが最も都合がよいのかもしれない。
果たして、テレワークで「部下の管理が…」と言っている管理職の考えはいかがなものだろうか。
では!